治験を受けにきたはずが...
さて、前回も書いたように↓
高額な報酬を求めて遥々イギリスにやってきたわけだったが、結果を言うと、
治験は、
受けられませんでした!!
The健康体の僕が治験受けられなかった。
一体なぜ。。
8月15日 19時間かけてロンドンに到着した。
事前検査が次の日に行われるというので、治験会社が管理しているハウスがあるピーターバラという街に向かった。
ハリーポッターの映画で魔法学校に行くために使ったkings cross駅から北におよそ100km。
ピーターバラ駅に着き、そこから更にバスで20分
ハウスに到着
インターホンを鳴らすと、日本人男性のシュウさんが出迎えてくれた。
治験をやる人はそれなりにクセの強い人とは聞いたことがあったが、確かにシュウさんはロン毛のひょろひょろしてて健康そうには見えない人だったが、彼は僕が受ける治験の1つ前の日程ですでに終えた先輩だった。
彼にハウスのことを少し教えてもらい、明日に向けて就寝。
次の日部屋をノックする音で起きた。
どうやら昨日15時からずっと寝ていたらしい。
お腹が減っていたが絶食が義務付けられていたため我慢だ。
ドアを開けるとレインボーカラーのドレッドをソフトクリームのように頭に巻いた、カミムラさんという方がいた。
彼もまた今日が事前検査の日だというので一緒に行くことになった。
彼はこれまでにも何度か治験を受けているいわゆる治験ラーである。
彼曰く、今まで治験でおかしくなったことはなので、危険ではないとのことだ。
ピーターバラから北に2時間ほどかけてリーズという街に着いた。
そこからバスで検査が行われる会場に到着した。
中にはすでに4人の男がいた。
僕らを合わせて6人
ここから4人が治験に参加することができる。
彼らはライバルだ。
説明や書類を書いた後検査が始まる。
カウンセリング、尿検査に続いて行われたのが心電図の検査。
心電図の結果が出て、少し待っていると、心電図の結果の書かれた紙を持って担当してくれた彼女はとても申し訳なさそうに言った。
“You can do that ...“
は??何が??今日の検査??それとも治験??
日本人が診察室に入ってきて説明してくれた。
どうやら、治験会社が求めてる心電図の数値より少しオーバーしていたみたいだ。
そのため今回の治験は受けられませんとのことだった。
心電図はその時のコンディションによって変わるみたいで、長旅で疲れてるから再度別の日に検査を受けさせて貰えるように試みてくれたが、再検査はないそうだ。
Oh my gosh!!!
なんて使ったことはないが、この時最も最適な言葉はこれだろう。
イギリスに来て2日目でまさかの目的を失った。
全員の検査が終わり、140£分の小切手を貰い、現金にするため会場からみんなで銀行に向かった。
結局、僕は治験を受け5日で大金を手にすることはできなかった。
しかし、イギリスの往復航空券と140£のお小遣いが何もしなくても貰えたと考えたら、とてもとても得することができたのではないか!!
コンディションを整え、またいつかリベンジを...
治験編 完
治験の光と闇
今回は治験の光と闇について書いていきたい。
まずは光の部分✨
治験で一番大切なことは報酬💰💰
今回イギリス郊外で行われる治験会社の報酬は、
4泊5日の入院と二回の事前検査と一回の事後検査で1407£(約18万円)
更には計3回の検査で交通費として140£が支払われ、また日本から来た人には日本からイギリスまでの航空券が全額支給される。
おまけには入院するまでの間、そこの会社が管理している家に住むことができる。
そこの家から検査場所の病院までの電車賃は往復で約3000〜4000円
その程度の距離に対して日本円で約1.8万円の支給が出るのだ。
僕がとった航空券は15万円のもので、それも全額支給される。
つまりこの治験全ての日程をこなすと、合計で、約38万円の報酬を受け取ることができるのだ。
こんなにお金をかけているんだ。きっと恐ろしい人体実験なんだろう。。
そう思うだろう。
では次に闇の部分🌪
治験で死ぬことがあるらしい。
最近も治験を受けた日本人の方が亡くなってしまったらしい。
人に試したことのない薬だからこそ、原因不明な副作用があるかもわからない。
そういった危険性が一応ある。
今回投与される薬は治るかどうかというよりかは、その薬が人体にどういった影響を与えるのかを調べる為の実験だと。
だから別に死んだり、後遺症が残ったりはしない治験だろうと考えている。
でも、一応何が起きるかは保証されてないので、あなたが受けようとしている薬もまだ人間に試したことのない薬なので何が起きるかわかりませんが御理解いただけますか?という質問も受けた。
医療の進歩に役立つなら、、
そんな気持ちで、大丈夫ですと答えたのだった。。
本当はお金目当て。。
次回、事前検査、まさかの展開
5日で20万円貰える闇仕事!?イギリスの治験に挑戦
久しぶりの投稿になります。
今回夏休みを利用して、どうしてもやってみたいことがあったので、イギリス🇬🇧を訪れた。
やってみたいこと。
それは治験!
まず治験ってなんぞやという人のために、
以下Wikipedia 参照↓
治験(ちけん、Clinical trial)とは、医薬品もしくは医療機器の製造販売に関して、医薬品医療機器等法上の承認を得るために行われる臨床試験のことである。
要はまだ世の中に出てない薬を投与して、どのような影響を与えるか観察するための実験。
今回の治験の報酬はなんと約20万💰
そしてなんと往復航空券もついてくる!
“金に目が眩んで身体を粗末にするようになったか”
“死ぬぞ”
とか散々言われたが、実際はどうなのか次回から書いて行こうと思います。
ケニアで引きこもりになった
最初に言うとケニアは僕にとって最悪の国だった。
僕はケニア滞在中ケニア人がうざすぎて外に出たくなくなってしまった。
そう、引きこもりになった。
理由は簡単に言うと、僕はケニア人に受け入れられなかった。
街を歩けば人々は目玉をおっ広げて僕を見てくる。前から歩いてくるケニア人は僕を見たらすれ違って背中が見えなくなるまで見してくる。
チラ見ではないガン見だ。
そして10人中8人の割合でチャイナ!と声を掛けてくる。
チャイナでもなんでもいいが、なぜケニア人は皆用もないのにチャイナ!と言って呼び止めてくるんだ。
なぜ国籍で声かけてくる。
Hi!How are you?でいいじゃん。
日本に黒人いても ヘイ!アフリカン! とは言わないでしょ?
そしてきまって彼らはニタニタ気持ちの悪い笑みでこちらを見る。
例えるなら小学生が色黒の同級生をからかうようなそんな感じの感覚だろうと思えた。
帰りの空港での話だが、チェックインを終えフライト待合室ロビーに行こうとしたら職員がちょっと待てと言うふうに手招きしてきて、何か問題があったのかと不安になりながら行ってみると、その瞬間に 「コリアン?」と聞いてきた。
お前もか!さすがにうざくなって日本語で怒鳴ってしまったが、彼を含めケニア人は国籍を尋ねないと気が済まない病気なのかもしれないと思った。
もう外に出ればガン見&チャイナ攻めでさすが気が滅入ってしまい外に出るのが嫌になってしまった。
そしてケニアが最悪な国だと確信した最大の出来事があった。
それはレストランで食事をしていた時だった。
この頃の僕はケニア人に疲れてしまい、楽しみが食事しかなかった。
このレストランはケニアのローカルな食事が食べられるお気に入りのお店だった。
いつも通り食事を済ませゆっくりしていると、レストランに車椅子に乗った婆さんとそれを引いている青年が入ってきた。
そして僕のテーブルの横に車椅子つけ、気持ちの悪い笑顔で持っている箱をジャラジャラしだした。
彼らは物乞いだった。
僕はこれまでインドやバングラデシュ、南アフリカ、タンザニアいろんな国の物乞いからお金を求められたが、レストランに入って来てまで物乞い活動をする物乞いは初めてだった。
特に物乞いの多いインドでもレストランに入って来てまで物乞い活動をする人はいなかった。彼は彼らなりのルールがあるようだったし、食事の大切さを知っている分、人の食事を邪魔してまで物乞いをしようという考えはないはずだと思った。
しかしケニアの物乞いはどうだ。
物乞いをする場所をわきまえず金をくれ。
最悪の貧乏人だ。
そしてそれを許してただ見ている店のオーナーも最悪だ。
こうしてお気に入りのレストランには二度と行かなかった。
この国は自分には合わない。早く帰りたい。
そうしてケニア出国当日、空港に着いた時は涙が出そうなくらい嬉しかった。
結局僕はケニアで思い出を作ることはできなかったが、良い経験だと思ってる。
今までの旅は人に恵まれすぎていた。
国籍や肌の色で呼ばれ人種差別のような扱いを受けることだっていろんな国に行っていれば経験する。
今回こうして愚痴ばかり書いたがこれは僕の個人的なケニアの感想に過ぎない。決してこれがケニアの姿だとは思わず、こういった経験をした人もいるんだなということを理解してほしい。
ケニアでCouchsurfing
Couchsurfing とは簡単に言うと、家に泊めてくれる人を探すアプリだ。それも無料で。
ホストは旅人を募集し、旅人はホストを探し気に入ったらメッセージを送りお互いが合意すればマッチング成功で泊まることができる。
僕はケニアでローカルな生活を体験してみたいと思いカウチサーフィンでホストを探した。
(ホテルに泊まる金が無いというのも最も適切な理由だったが...)
ホストにはケニアのナイロビに到着する前日にアポを取り4日間お世話になることになった。
こんな感じで泊めてもらえるかの返事をもらい、リクエストが承認されれば住所を教えてもらえる。
ナイロビに到着したら自分でタクシーを拾い教えてもらった住所まで行ってもらう。
教えてもらった住所に行くとホスト(女性)と謎の男が出迎えてくれた。
謎の男のことは後で説明するとして、無事ケニア滞在中の寝床が決まった。
僕が寝かせてもらう部屋には二段ベッドがあり、すでにエジプト人の男が寝泊まりしていた。
とりあえず僕はケニアで寝る所を無料で提供してもらえたが、四日間通して特にホストとの思い出で話はないので謎の男とルームメイトのエジプト人について話そうと思う。
ルームメイトのエジプト人はカイロから旅行するついでにビジネスを探していた男性で、彼は毎日顔を合わせると”What do you want?” と聞いてるのだが、何がしたいとも何が欲しいとも言ってないのでなんのこっちゃと思いながら、とりあえず”It’s OK”と答えていた。
さらに彼はケニアに来た目的を毎日聞いてきた。日本に帰るフライトがケニアからと教えても毎日質問してきたのでさすがに頭悪いのかと疑った。
そして謎の男についでだが、謎なのはホストとの関係だ。ホストの夫はすでに亡くなっているし、謎の男とは別居だ。ホストのボーイフレンドという可能性もあるが、謎の男は少し前までイタリアスーツの店で働いていたが、倒産してしまったらしく無職だ。そのくせ毎日酒を飲んでは夜になると家に来て、仕事がないことを嘆いている。その姿はとてもかっこ悪いし、気味の悪さを感じさせる。
そんな男がボーイフレンドとは考えにくい。
彼は最終日空港までのバスの乗り方を教えて案内してくれたが、前日になぜか20ケニアシリング(約20円)欲しいと言われ、てっきり一緒に来てくれるためのバス代かなんかの交通費が欲しいのかと思ってあげたが、結局一緒に来てくれはしなかったのであの20円は何のためのお金だったのだろう。
おそらくお酒を買うためのお金が欲しかったんだろうな。
今回のケニアでのカウチサーフィンは危険なことは無かったが、泊まるときは十分に注意して被害に合わないようにしないといけない。
国境越え タンザニアからケニア
時刻は朝の6時
バス会社の人がホテル前に来てオフィスまで送迎してくれるということで待っていた。
昨日買ったナイロビ行きのバスは30ドルで購入。6時半頃出発し、昼過ぎには着くと伝えられてた。
ホテルの人の話では20ドルで買えるところもあったらしいが、せっかくタンザニア人に教えてもらった会社だったからきっと良い会社なのだろあと思い気にしなかった。
オフィスに着くとすでに数人のタンザニア人あるいはケニア人がいた。
他の人のブログなどを見ると、この区間のバスはこの値段で大型バスの座席には一人一人にモニターが付いているなかなか質の高いバスだとあったのでとても楽しみにしていた。
しかし実際に来たバスは
部活の遠征バスだった。
隣町に遠征に行くわけじゃないんだから。。
荷物を座席に積み込み出発した。
バスに乗っている人は自分も含め10人ほどしかいなかったので、この人数で行くならこの大きさでもいいかと思っていたが、走り始めてから2時間バスは高級そうなホテルの前で止まり、あのバスに移れということで同じ大きさのバスに乗り換えた。そのバスは僕らが乗り換えると満員になった。
そこからさらに2時間くらい走るとタンザニアとケニアのボーダーに来た。
ここで一旦荷物を全て下ろしてチェックを受ける。
入る前に犬に厳重なチェックを受ける。
さらにボディーチェックも受ける
中に入るとマラリアの予防接種が義務付けられてるみたいで、それを証明するイエローカードの提示をしなければいけないが持ってなかったので、1500ケニアシリング(約1500円)払って注射を受けイエローカードを受け取った。
無事に国境を越えバスに乗り込むと自分が一番最後だったので近くに座ってたアメリカ人女性が心配してくれた。
座ると民族風の格好をした人々が窓からこれ買あれ買えと売りつけられたり、荷物をバスに積んでくれた人が積んであげた代わりに10ドルくれと言ってきたりしていた。
国境を出たところで1時間ほど休憩
そこからさらに4時間
こんな感じの景色がずっと続いた。
そしてついにナイロビの中心街に到着。
ダウンタウンはかなり危険らしいので、どのくらい危険なのか感じてみたいと思った。
人生最大の危機! 現金がない!
町の戻ってくるとチップを払うために銀行へ向かった。
とりあえずマイクのチップの言い値は300ドル
そのくらいの額を降ろそうといつも通り愛用のクレジットカードでキャッシングを試みる。
よしカード入れてボタンポチッ....
エラー このカードは使えません。
ん。おかしいぞ。もう一回カード入れてボタンポチッ....
エラー このカードは使えません
え!!!どうした!海外キャッシングができない!!
他のカードで試そうと思ったがそれも同様に使えない。
やばい!海外キャッシング利用額オーバーしたんだ。。
とりあえずインターネットあるところで解決策を見つけようと近くのインターネットカフェに連れてってもらった。
Wifiをつなげると1週間ぶりのインターネットで安否を確認するメッセージや応援のメッセージがたくさん送られてきていた。
しかしそれらを後回しにとりあえず母に電話をかけた。
「もしもし キリマンジャロ登ったよ!
それより大変だ。銀行でお金を〜〜」
とりあえず事情を説明して母からカード会社に連絡してもらおうと思ったが本人じゃないと全く受け付けてもらえなかった。(Wifiが繋がってるだけでは国際電話はできないので)
ならばLINE電話越しに電話で話してみるか。。
それともカード会社に頼み込むか。。
日本大使館でお金を借りるか。。
カード会社にそんなことはできないし、日本大使館も行ける距離ではない。
結局インターネットが通じても解決策が出ないままツアー会社に戻ることに。
ツアー会社の人にも事情を説明して、ガイドやポーターたちには明日の昼までには何とかするから待ってて欲しいと頼み帰ってもらった。
とりあえず何とかするから。そう言ってホテルに帰った。
さあどうしよう。何とかすると言ったものの解決策はない。
ああ、こんなことならキリマンジャロ一緒に登った日本人と連絡先交換しておけばよかった。。
キリマンジャロ登頂の余韻に浸る余裕はなく焦っていた。
所持金はおよそ70ドル。日本に帰るフライトがケニアからなので、チップを払わず今夜夜逃げするか。そんなことも考えたがケニアに入るビザ50ドル。バスが20〜30ドル。ケニアに入る前のイエローカード発行15ドル。
ほとんどのお店がクレジットカード非対応のため今の所持金では国を渡ることはなかなか難しい。
とりあえずもう一度ツアーオフィスに相談しに行った。
行くと25歳カミルが対応してくれた。
このオフィスはカミルの父とカミルが取り仕切っている。
行った時間がお昼だったため昼食をご馳走になった。
今泊まっているホテルの宿泊料金も滞納している自分にとっては飯は貴重だ。
本当にありがたい。
飯を食べ少し冷静さを取り戻した。
そしてカミルにこんな提案をしてみた。
キリマンジャロに登る前にオフィスに払った現金を返してもらい、その分をカードで払わしてくれと。
実はキリマンジャロ登山の前日にツアー代として約360ドル分の現金をタンザニアシリングで払っていた。その分を返してもらえればチップも払える。
カミルは、
うちのオフィスにはカードで払う機械がないが、友達のツアーオフィスが持ってるから聞いてみるよ。
するとカミルはいろんなところに電話をかけてくれて事情を説明してくれた。
しばらくするとカミルの友達のツアーオフィスのオーナーが来て、車に乗って彼のオフィスに向かった。
オフィスに入るとカード決済の機械があった。
360ドルだが、銀行で現金に変えるため等の手数料で415ドルを払うことになってしまうが大丈夫かと言われたが現金が手に入ればなんでもよかった。
明日の夕方には現金を持って行けるからということでカミルのオフィスに戻った。
カミルはガイドのマイクにこれまでのことを説明してくれて明日の夕方に来てくれるそうだ。
なんとか窮地を出することができ、一安心。
さらにホテルに戻る途中ぶらぶらしているとなんとキリマンジャロで一緒だった日本人にばったり会った!
今日のことを説明すると
なんと彼は65ドル貸してくれた。
連絡先を今度こそ聞いて必ず返しますと約束し別れた。
次の日の昼過ぎにオフィスに行くとすでにマイクがいた。彼が果物の盛り合わせを食べていて一緒に食べろよって言って食べさせてもらった。果物の説明やタンザニアの話、お互いの家族の話をしていた。
しばらくすると昨日お世話になったカミルの友達が360ドルを持ってやってきた。
そして車に乗り近くの開放感のあるレストランに連れて来られ、そこでチップの受け渡しをした。
彼の元々のチップの言い値は300ドルだったが、250ドルに値下げしてもらった。
お世話になった人へのチップを値下げしてもらうというのはなんとも心苦しかったが、この後の旅を考えると仕方がなかった。
マイクがお会計を済ませ店を出た後、自分が注文した分のお金を渡そうとしたら彼は頑なに受け取ろうとしなかった。
帰り際ケニア行きのバスチケットを買えるところまで案内してくれて無事にケニア行きを買うことできた。
さらに両替やお土産選びにも付き合ってくれた。
オフィスに戻るとマイクがその場で登頂証明書に名前を書き渡してくれた。
本当に何から何までありがとう!
彼らがいなければキリマンジャロ登頂も出来なかったし、現金もないままだっただろう。
最後にオフィスのリコメンドノートにこれまでのことを書いた。
たくさんの人の優しさに助けてもらい、そしてお金の価値を知った2日間であった。